曲芸師のつぎは漫才師だ。
私が20歳の頃だ。大阪で試合があり、神戸ジムの選手が出るときは、大学の授業が終わると急いで会場へ向かった。母の叔父は県会議員で神戸ボクシングジムの後援会長だった。だから、高校を出たあと、私には大学生とジムの拳闘小僧のふたつの顔があった。
芦屋駅で漫才師の捨丸、春代と出遭った。私は団塊の世代でラジオが娯楽の時代に育ったせいか、落語や漫才の笑いが好きだ。一番おもしろかった漫才師は中田ダイマル、その次の好みは砂川捨丸だ。
「頑張ってください。ファンです」と声をかけたことで漫才師夫婦の仲たがいが融和したような印象を持った。私はまだ子供で単純だったから。
近年、捨丸春代の「丘を越えて行こうよ」の漫才の動画を探してみたが、見当たらなかった。確か吉田留三郎という偉い漫才研究家が捨丸の伝記を書いていて、その中にこの「丘を越えて行こうよ」の筋書きのようなものがあったような記憶がある。蔵書にあるはずだが、雑書に埋没して見つけられなかった。
(7−10−2021)
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昔書いたものを整理していたら、「曲芸師」という随筆めいた一文が出てきた。これは転居前、近くに住む高名な曲芸師とすれ違った話だ。
芸を披露することを業とする人が、その芸を錆(さ)びさせないよう習練するさまを垣間見た。
もう故人だが、その名を海老一染之助という。和傘の上で毬(まり)や升(ます)を回す芸を得意とした。そばに二歳違いの兄、染太郎が付き添い、笑いをさそう解説役をつとめていた。
兄が十五年早く世を去り、弟は八十三歳で逝った。兄亡きあと、染之助はひとりで舞台をつとめたそうだ。正月限定で、林家木久蔵が亡兄の相方の役をしてコンビを組んだことがあったと聞くぞう。
私はいまほど頻繁に泳ぐことを日課にしない頃、神社までジョッギングしてそこで体操をしてまた走って帰った。神社の境内で海老一染之助の日々のトレーニングぶりを見た。
ときどき散歩の途中、染之助を想い出し、その神社まで足が伸びる。
(7−9−2021)
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静岡のわが友、和田さんから毎年、新茶を送っていただく。
そのお礼として毎年、何か書道の拙作を返礼として送らせていただく。
今年は「新茶一生」という大判の色紙を送った。
和田さんの許可を取り、ここにコピーを掲載させていただく。
感謝。
(7−2−2021)