ジョー小泉のひとりごと 2021年5月


烏有(うゆう)先生

 ペラ(200字詰め原稿用紙)4枚程度でおさまる小話を考える。出来ればオチを付けたい。

 この「烏有先生」は烏有の意味を確認するため広辞苑を引いていたら、先生を付したこの見出しがあったことから思いついた。

 続編も考えついたが、それはまたこの次に書こう。

 鉛筆で原稿用紙に走り書きをするのは悪くない。誤字は消しゴムで消せるので、出来上がったとき万年筆で加筆、訂正したときのような汚れがない。そしてコピーを取れば、鉛筆で書いた原稿が何かでこすれても汚くならない。

私は消しゴム収集家なので、消すたびに別の消しゴムを使える。
(5−30−2021)


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励ます言葉

 拙筆の表装が出来上がってきた。掛け軸の数え方は「幅(ふく)」だから、四幅というのが正しい。四幅は至福に通じて悪くはない。

 以前、「運動は運をうごかす」と書いたことがあるが、今回は「運動は運をはこぶ」と書いた。運動部の若者への激励である。人生、頭脳勝負だけでなく、体力、運、総合力が勝敗を決める。だから、若い間に運動で体を鍛えることは、将来、運をもたらす。そういう意味だ。

 「元気を出そう」、「悲観的になるな」はよくいう激励の言葉で、「良い方向に考えよう」もくよくよ思案せず、ものごとは良い方向に考えよう、というEncouragementだ。
(5−28−2021)


転 倒

 昔、原稿を手書きしていた頃の用紙がまだ大分残っている。いま印刷用の入稿は、メールで送らないと、相手側で打ち直さねばならず迷惑をかける。

 だから、原稿用紙は自分用の随筆を手で書くときに使っている。そう頻繁ではない。気が向いたとき、何か霊感がわいたときだけだ。

 万年筆に好みの色のインクを入れ、それで原稿用紙の枡目を埋めていく。ぼんやり浮かんだストーリーが文字となり文章となり、形ができてくる。

 この「転倒」は実話で、万年筆はペリカン、インクの色はセピアだ。日本橋の丸善で、「セピア色のインクってありますか」と訊くと、アテナインクという商品を勧めてくれた。

 変わった色で、ときどき気分転換に使う。普段は、ロイヤル・ブルーが好みだ。
(5−21−2021)

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日本のボクシングの日 + 各国初代世界チャンピオン

5月19日は日本のボクシングの日。
これレポートに各国初代世界チャンピオンのリストを付け加えた。

https://fightnews.com/may-19-japans-day-of-boxing/113122

何度もBoxRecとチェックし、修正の上、入稿した。

折角の力作も数日でFIGHTNEWSは次の頁に移動し、労作は忘却される。
何かむなしい感じがする。

これはボクシング・ライターの宿命かな。
(5-23-2021)
Country Name(Birth Date and Place) Organization Division Acquisition
year
ALGERIA MARCEL CERDAN (7/22/16 @ Sidi Bel-Abbes) World 160 1948
ANTIGUA MAURICE HOPE (12/6/51 @ Nero dell'Antigua) WBC 154 1979
ARGENTINA  PASCUAL PEREZ (5/4/26 @ Tupungate, Mendoza) World 112 1954
ARMENIA VIC DARCH@YAN (1/7/76 @ Lori, Vanadzor) IBF 112 2004
AUSTRALIA YOUNG GRIFFO (4/15/69 @ Miller's Po@t, Sydney) World 126 1890
AUSTRIA JACK ROOT (5/26/76 @ Fryhelge, Bohemia)  World 175 1903
BAHAMAS ELISHA OBED (2/21/52 @ Delectable Bay, Ackl@s)  WBC 154 1975
BARBADOS JOE WALCOTT (3/13/73 @ George Town, Guyana) World 147 1901
BELGIUM GUSTAVE ROTH (3/12/09 @ Anversa)  IBU 175 1936
BELIZE VERNO PHILLIPS (11/29/69 @ San Pueblo) WBO 154 1993
BRAZIL EDER JOFRE (3/26/36 @ Sao Paulo) NBA 118 1960
CANADA GEORGE DIXON (7/29/70 @ Halifax, Nova Scotia) Claimant
World
118
126
1890
COLOMBIA ANTONIO CERVANTES (12/23/45 @ San Basilio de Palenque) WBA 140 1972
CONGO ANACLET WAMBA (1/6/60 @ Luranga) WBC 190 1991
CUBA KID CHOCOLATE (1/6/10 @ El Cerro, Havana)  NBA 130 1931
DENMARK BATTLING NELSON (6/5/82 @ Copenhagen) World  135 1905
DOMINICAN REPUBLIC CARLOS TEO CRUZ (11/4/37 @ Santiago de los Caballeros)  World 135 1968
 FRANCE CHARLES LeDOUX (10/27/92 @ Pouges les Eaux, Nievre) IBU 118 1912
ENGLAND WILLIAM SHERIFF (8/1/47 @ Leicester) World 160 1880
GERMANY FRANK MANTELL (6/25/86 @ Brandenberg) World 147 1907
GHANA DAVID KOTEY (12/7/50 @ Accra) WBC 126 1975
GREECE ANTON CHRISTOFORIDIS (5/26/17 @ Messina) NBA 175 1941
GUADALOUPE GILBERT DELE (1/1/64 @ Lament@) WBA 154 1991
GUYANA DENNIS ANDRIES (11/5/53 @ Georgetown) WBC 175 1986
HAWAII DADO MARINO (8/26/16 @ Honolulu, Oahu) World  112 1950
HUNGARY ISTVAN KOVACS (8/17/70 @ Budapest) WBO 126 2001
INDONESIA ELLYAS PICAL (3/24/60 @ Saparua-Maluku) IBF 115 1985
IRAN MAHYAR MONSHIPOUR (3/21/75 @ Tehran) WBA 122 2003
IRELAND DENNY HARRINGTON (12/13/49 @ Cork) World 154 1878
ITALY HUGO KELLY (                  @Florence, Toscana) Claimant  158 1905
JAMAICA MIKE McCALLUM (12/7/56 @ Kingston) WBA 154 1984
JAPAN YOSHIO SHIRAI (11/23/23 @ Arakawa Ward, Tokyo) World 112 1952
KAZAKHSTAN ANATOLY ALEXANDROV (2/3/67 @ Shakhtinsk) WBO 130 1998
KHYRGHYSTAN ORZUBEK NAZAROV (8/30/66 @ Kant) WBA 135 1993
SOUTH KOREA KI-SOO KIM(9/17/39 @ Buk-chong, Ham-kyongnamdo) WBA 154 1966
MARTINIQUE DANIEL LONDAS (5/17/64 @ Fort-de-France) WBO 130 1992
MAURITANIA TAOUFIK BELBOULI (12/10/54 @ Bennane, Tunisia) WBA 190 1989
MEXICO  BATTLING SHAW (10/21/10 @ Nuevo Laredo, Tamaulipas)  NBA 140 1933
MONGOLIA LAKVA SIM (2/10/71 @ Ulanbaator)  WBA 130 1999
NAMIBIA HARRY SIMON (10/21/71 @ Walvis Bay) WBO 154 1998
NEW ZEALAND BILLY MURPHY (11/3/63 @ Auckland)  World  126 1990
NICARAGUA ALEXIS ARGUELLO (4/19/52 @ Managua, Portorico) WBA 126 1974
NIGERIA HOGAN BASSEY (6/3/32 @ Calabar) World 126 1957
NORWAY PETE SANSTOL (3/28/05 @ Moi) Canadian 118 1931
PANAMA PANAMA AL BROWN (7/5/02 @ Colon) NY/UBU/World 118 1929
POLAND DARIUSZ MICHALCZEWSKI (5/5/68 @ Danzig) WBO 175 1994
PHILIPPINES PANCHO VILLA (8/1/01 @ Iloilo) World 112 1923
PUERTO RICO SIXTO ESCOBAR (3/23/13/@ Barceloneta) NBA 118 1934
ROMANIA MICHAEL LOEWE (2/13/69 @ Hunebohra)  WBO 147 1997
RUSSIA LOUIS KAPLAN (10/15/01 @ Kiev, Ukraine) World  126 1925
SCOTLAND JAMES 'TANCY' LEE (1/31/82 @ Glasgow) IBU 112 1915
SOUTH AFRICA WILLIE SMITH (7/18/04 @ Johannesburg) British 118 1927
SENEGAL BATTLING SIKI (9/16/97 @ St. Louis)  World 175 1922
SPAIN BALTAZAR SANGCHILLI (10/15/11 @ Valencia)  NY/UBU 118 1935
SURINAM REGILIO TUUR (8/12/67 @ Paramaribo) WBO 130 1994
SWEDEN INGEMAR JOHANSSON (10/16/32 @ Gothenburg) World Heavy 1959
SWITZERLAND FRANK ERNE (1/8/75 @ Zurich) World 135 1899
THAILAND PONE KINGPETCH (2/12/36 @ Hui Hui Province) World  112 1960
TRINIDAD CLAUDE NOEL (7/25/48 @ Roxborough) WBA 135 1981
TUNISIA VICTOR PEREZ (10/18/11 @ Tunis) NBA/IBU 112 1931
VENEZUELA CARLOS HERNANDEZ (4/22/39 @ Caracas) World 140 1965
UGANDA AYUB KALULE (1/6/54 @ Kampala) WBA 154 1979
UKRAINE WLADIMIR SIDORENKO (9/23/76 @ Energodar) WBA 118 2005
UZBEKHISTAN ARTUR GRIGORIAN (10/20/67 @ Tashkent) WBO 135 1996
VIRGIN ISLANDS EMILE GRIFFITH (2/3/38 @ St. Thomas)  World 147 1961
WALES JIM DRISCOLL (12/15/80 @ Cardiff) IBU 126 1912
WESTERN SAMOA MASELINO MASOE (6/6/66 @ Apia) WBA 160 2004
YUGOSLAVIA MATE PARLOV (11/16/48 @ Spoleto) WBC 175 1978
ZAIRE SUMBU KALAMBAY (4/10/56 @ Lubunbashi) WBA 160 1987


世界で最初のボクシングフィルム(1894年)

ファイトニュースに
「世界で最初のボクシングフィルムは存在する」
と題してレポートを書き、それが掲載された。
興味のある方は、どうぞご一読ください。

https://fightnews.com/the-first-fight-ever-filmed-leonard-vs-cushing-in-1894-exists/112924

(5-19-2021)


Kの宇宙

 Kは七男一女の末っ子として生まれた。係累はすべて芸術家(アーティスト)であり、中でも父Gは「神」と呼ばれるほど、その作は神品と評された。

 書を巧みに書き、画を能(よ)く描き、すぐれた詩を詠むという三拍子そろった達人は「三絶」と呼ばれ、高く評価されたが、Gはまさにそれであった。

 Kは幼児の頃から兄たちが父から書画を習うのを傍(かたわら)らで見ていた。そのせいか幼くして筆を執り始めたとき、父は筋のよさに驚き喜んだ。

 Kが七歳のときである。手習いをしているKの後ろから、父は筆を引っ張った。筆は抜けない。Kの筆は紙に直角に立っており、かつ適度な強さで筆管を握っていた。

 父は嘆息して言った。
 「この子は将来、能筆(書の達人)として名を上げるに違いない」と。

 Kは父の書跡を模写することに努め、まるで父のように書けるようになった。人は「神の再来だ」と誉めた。

 父Gの従者に老執事と呼ばれる男がいた。名は伝わっていないが、長く執事を務め、Kが生まれるずっと前からこの家にいる。あるとき、Kは老執事に問うた。
 「老執事、私の字は父に近づいたとは思わぬか」と。

 老執事自身もなかなかの能筆であるが、「よくお父上の筆の跡をご覧ください。どこがまだ及ばないか、ご自分で判別されることです。慢心は上達を妨げます」と諭(さと)した。

 あるとき、父Gは興が沸き、壁に流麗な字を書き、そして都に旅立った。それを側で見ていた息子Kは壁を拭き取り、自分の字で書き換えた。Kは自分の字の方が巧みだ、とひそかに自負した。

 その側で老執事はKの所作を諫(いさ)めることなく、ただ眺めていた。
 「老執事、私の字はどうだ? 父を超えたとは思わぬか?」
 老執事は応えず、ただ無言に徹した。

 父Gは旅から戻り、壁の字を見るなり言った。
 「都に出る前は、酒に酔っていたらしい。なぜこんなに拙い字を書いたのだろう」と反省した。
 息子Kは父の嘆きを知り、己の技量のまだ父に及ばぬことを深く恥じたという。

 ――Kの性格は奔放不羈であったといわれている。すなわち、心は気高く、才識すぐれてはいるが、常軌で律しがたい。高貴な家に生まれ、かつ自ら才能に恵まれた御曹司そのものだった。

 Kは成長するにつれ、天賦の才を発揮し、民衆の人気を得た。父Gは歳をとるに従い、狷介にして人と折り合わぬ頑固さを増したが、Kは人の賛美を好んだ。

 あるとき、Kは方丈(約3メートル四方)の大きな文字を壁に揮毫(きごう)し、数百人の観衆の賛嘆を受けた。それを聞いた父Gは苦々しく思った。

 父Gも画才があり、若い頃、その巧みな字に画を添えたが、いまは右軍将軍という重職にあって政務に忙殺され、画筆を執る暇(いとま)がない。

 一方、Kの水墨画は四君子、すなわち梅菊蘭竹の基本をよく学び、その作品に対し巷での評価が高まった。

あるとき、Kは友に頼まれ、扇に詩を書いた。途中、Kは筆を落とし、扇を汚してしまった。しかし、泰然自若として、その染(し)みに書き加え、黒いまだらの牛に変身させた。友はKの臨機応変の技に驚き、以後、人に会うごとにその扇を披露したという。

ここで書道(中国では、書法と呼ぶ)の書体について触れる。書体には、篆書、隷書、楷書、草書、行書の五種類がある。行書をよりくずしたのが草書である。

 神と呼ばれた父Gの草書は個々の文字が独立した「独草体」である。しかるに、子Kは父にはない要素を取り入れようとした。それは字と字をつなぐ連綿(れんめん)という技巧である。

 父は個々の字の美しさをきわだたせるため、連綿は二字までとした。一方、Kは三字、四字と連綿をつなげ、「連綿草」という草書の新機軸を打立てた。

 またあるとき、父Gの親友、謝安がKに問うた。
 「若、あなたの書はお父上と比べ、いかがでしょうか?」
 謝安はKの「まだまだ自分は未熟です」という謙虚なことばを期待していた。ところが、Kは答えた。
 「勿論、違っています」と。

 謝安はまた訊いた。
 「世間の評判では、あなたはまだお父上に及ばない、とされていますが」

 Kはそのとき胸を張り、頭(こうべ)を高くして言った。
 「世間に何が分かりましょう」
 二人のやり取りを部屋の隅にいた老執事は居眠りの風を装いつつ聞いていた。

 ――父Gの芸術家としての名声はますます高まり、神格化された。神Gは五十九歳で没した。東南アジアの漢字文化圏の有識者たちは書聖Gの死を悼んだ。

 それから約二十年後、今度はKが病の床に臥した。長寿の老執事はKの枕元で看病した。
 Kは人払いをしたうえで老執事に尋ねた。
 「老執事、わが芸術(アート)は父に追いついたか?」

 老執事はKを見つめながら小声で言った。
 「あなた様はもうお父上を凌駕なさいました。真の三絶とです」
 二人の眼には涙が光った。

 間もなくKは臨終を迎え、そして逝った。偉大な父を超克するため自己を燃焼し尽くしたのかもしれない。了



<Kの宇宙、縁起>
 この小話のモデルは、父Gが王羲之(おうぎし)、息子Kが王献之(おうけんし)である。王羲之の神格化により、息子、王献之の歴史的評価は相対的に低い。父は「大王」と、息子は「小王」と呼ばれた。

 しかし、この位置づけは果たして正しいのだろうか。両者の書蹟を臨書していたとき、王献之の巧みさをわが拙筆は感じとった。

 すべてとはいわないが、王献之が王羲之を凌駕していた領域があるのではないか。王献之はより高く評価されていいのではないか。

 王羲之、および王献之を実際に自分で臨書せず、文献(世説新語など)のみを孫引きしていると、どうしても王羲之優越に傾きがちだろう。それに異を唱えるため、小話を作ってみた。文中、老執事の存在がフィクションである。他のエピソードは下記の文献を参考にさせていただいた。


<参考文献>
中国書人傳(貝塚茂樹筆、中田勇次郎編、中央公論社)
 いろんな作家が中国の著名な書家について伝記を書いたものを集約
中国書人伝(駒田信二著、芸術新聞社)
書家101(石川九揚、加藤推繋共著、新書館)
書藝閑話(李家正文著、朝日新聞社)
書聖王羲之(魚住和晃著、岩波現代文庫)
太公望・王羲之(幸田露伴著、新潮文庫)
(5−13−2021)


春暁

唐の詩人、孟浩然(もうこうねん)に有名な詩がある。
「春暁 しゅんぎょう」である。

春眠 暁(あかつき)を覚えず
処々 啼鳥(ていちょう)を聞く
夜来 風雨の声
花落つること 知る多少ぞ

現代語訳を試みよう。

春は朝眠たくてたまらない
まだ眠いのにあちこち鳥の鳴き声
昨夜は雨まじりの強風
どれだけ花が散ったやら

漢詩を読み下し文で硬く訳すより、井伏鱒二のような軟らかい口語訳を自分なりに試してみると、味わいが分かる。

水墨画に賛(文字)を入れたが、ひとつしくじった。
この絵は縦で岩の背に蘭の花が横に出ている構図だった。

つまり、漢詩は90度回転させて縦に書くべきだった。
ああ、失敗。
まあ、いいか。土手に蘭の葉がなっている絵に見えなくもない。

孟浩然でなく、もう降参だ。
(5−6−2021)


切磋琢磨

<北京の書道店にて>

 北京に「琉璃廠リィウリチャン」という名の骨董書道街がある。天安門の南、地下鉄の和平門で下りて徒歩十五分ほどだ。秋葉原が電気店街であるように、その通りは軒並み骨董書道の老舗が集っている。

 私はある顔なじみの印章作りの店にいる。何点か注文をし、印が彫られているのを眺めている。書道(中国では書法と呼ぶが)の道具を「文房四宝」といい、筆、墨、硯、紙を指す。待つ間に筆や墨を求めた。さらに、懸命に印章を彫る老師の夫人から勧められ、日本にはないような色彩の信箋(日本でいう便箋)を買い求めた。

 前回、北京を訪れたのは三ヵ月前で、ボクシングの総会に参加したときだ。私はボクシング国際マッチメーカー(交渉役)で、会議の合間、書道の用具を見に琉璃廠を訪れた。そのときも印章を作ったのだが、出来上がるまで近所の中国書店でさまざまな本を見ていた。

「こんなに綺麗な拓本がこれほど廉価だとは」と妙な感動をし、何冊も買い込んだ。だから、印章の出来上がる過程は見ておらず、戻ったときは落款印や蔵書印が完成していた。それは素晴らしい篆書(てんしょ)の印章だった。

 今回は急ぐ用もなく、ずっと老師が印石に鑿(のみ)を当て手際よく彫るのを眺めていたが、それにも飽きた。机上には老師が国家表彰を受けたときの賞状が掲げてある。ふと表通りをガラス越しに見ると、背広を着た男が外から陳列された商品を眺めている。

 どこかで見たことのある顔だ。広い額、えらの張った意志の強そうな顔つき、いかつい体躯の初老の紳士だ。


<竹馬の友>

 私は急に立ち上がった。店の内側からその紳士の顔を間近で見るため、玄関近くまで歩み出た。
 「Sではないのか」と扉を開けるなり言った。紳士はしばらく私の顔を見つめていたが、驚いた表情で言った。
 「K、君はKか」
 二人は小学校時代の同窓生だ。高校までずっと同じ学校だったが、もう五十年も会っていない。それが異国の書道街で再開するとはーー何という奇遇だ。

 私とSは小学校時代、同じ書道塾に通っていた。長い机の隣同士に座り、同じ課題を黙々と書いた。私は半紙からはみ出すような力強い大きな字を書き、Sはやや小ぶりで端正な字を書いた。

老先生はほめ上手で、いつも両方を激励した。私はいたずら坊主で、筆で丸や三角、そして漫画を描いた。老先生は笑いながら黙認してくれた。Sは寡黙で、私の漫画を笑って見ていた。

 小学校の展覧会で、私は金賞を受け、Sは銀賞だった。私は父親とともに展覧会へ行き、誇らしげに自分の作品を指さした。父は息子の作品の隣に掲示していたSの字をずって見ていて、「S君は上手いな。非常にいい字だ」と言った。

「僕の方が金賞だよ」と指摘すると、父は「S君は字の空間を生かしている。お前の字は勢いがいいが、余白がない。大きく書けばいいというものではない」と厳しいことをいう。私は銀が金より上という父の評価に大いに傷ついた。

 まだ老師は印章を彫り続けている。店内の椅子に座り、私とSはその後の五十年間を話し合った。Sは某大学の工学部の教授で、学内の書道同好会の講師をしているという。

 「偉いな、小学校以来、ずって書道を続けているのか」と私は感嘆し、自分は高校を卒業するともう筆を執らず、四十年の空白(ブランク)を経て十年前また書道を始めた、と話した。

 「私はボクシングの試合や総会で中国に来るが、君は何のためにこの国を訪れるのだ」と訊くと、Sは数年前、伴侶を亡くし、その寂しさを紛らわすため、休暇の折、中国を訪れ高名な書道家に師事しているという。そして、この書道街で文房四宝を求め無聊(ぶりょう)を慰めているそうだ。


<階上の蘭亭序>

 老師に訊いた。「あとどのくらいかかりますか」というと、「一時間だね」と悠長に答える。私はSに「このあと何か予定があるのか」と問いかけた。特にない、という。

 「この店の二階に大きな机があり、中国の書道家は試し書きをするそうだ。私も以前、何本も筆を求めたとき、筆試しに使わせてもらった」と私は説明し、「どうだ、久しぶりに机を並べて同じ字を書いてみないか、小学校時代のように」と提案した。

 Sは笑いながら受諾した。私は老師の夫人に「階上で字を書きたいので、机と筆を貸してほしい」と頼んだ。いつもたくさん買い込む上顧客なので、すぐ受け入れられた。

 漢字文明圏で最も有名な書道の手本は、書聖、王羲之(おうぎし)の「蘭亭序」だろう。かつて蘭亭という庭園に文人墨客が集い、歌を詠み合った。

小川があり、酒を満たした盃(さかずき)がゆるやかに流れて来る。自分の前にその盃が来るまでに歌が出来上がっていなければ、その盃を飲み干さねばならない、という遊戯のルールだ。

 その宴(うたげ)を記念して、王羲之は一文を草した。それが、「永和九年(西暦三五三年)、春の頃、身を清め汚れを払い祭事をするために、会稽山陰の蘭亭に老いも若きも集った」で始まる書きもので、王羲之の作品の中でも最も有名で、およそ東南アジア圏で書道を習う者は、みんな一度は書く名作だ。

 「印が出来上がるまで二人で『蘭亭序』を書かないか」と提案すると、Sはそれを受諾した。老師の夫人とその家族は早速、階上の机に二組の筆、墨、硯、紙を用意してくれた。

二人は話をしながら、墨を磨った。墨汁を使ってもよかったのだが、互いに特に急ぐ用があるわけでもないので墨を磨ることにした。中国の古墨特有の香気が漂う。

 「蘭亭序が二冊ありますか」と私が老婦人に問うと、Sは「私は要らない。もうすべて頭に入っているから」と驚くべきことを言う。もう百回以上も蘭亭序を書いて細部まで記憶しているそうだ。私はせいぜい五度くらいなもので、王羲之の手本がなければ書けない。ずいぶん差がついたものだ

 二人の日本人が童心に返ったかのように、黙々と北京の書道店の階上で「蘭亭序」を書き続ける。それを店の人たちが興味深そうに見守る。時が止まる。階下では老師がまだ印章を彫り続けている。


<切磋琢磨、縁起>
 これは十八歳で書道から離れた自分と続けていたと仮定した自分を中国で再会させたフィクションである。

 中国の老舗書道店の階上で、子供の時のように二人が机を並べて切磋琢磨するという仮想の話だ。
(5−5−2021推敲)


自分の感受性くらい

半紙にちょっとしたことわざや詩(漢詩が多いが)の一句を書き、壁に貼っている。毎月、それを別の紙に貼り変えようと思うが、多忙と怠惰にまかせ、先々月のがそのままになっている。

その先々月の言葉は、詩人、故茨木のり子の「自分の感受性くらい」である。この詩における感受性とは現代の言葉では「感性」と呼ばれるものだろう、と思う。

茨木のり子はすぐれた詩人だった。
ピンポイントを打ち抜く言葉の選択、そして強さがある。

伝記や日記を読むと、東伏見から武蔵野市までバスで買い物によく来ていたそうだ。そして買い物に寄るGP商店街は弊社リング・ジャパンのひとつ隣の筋だ。

年譜を見ると、この商店街で私はこの詩人とすれ違った可能性がある。

ときに茨木のり子の詩を読むと、元気づけられる。
(5−4−2021)


しばらくさようなら、加藤周一

 若い頃、加藤周一が好きで、その著書は出るたびに読んだ。文化、社会、政治と関心領域の広さが魅力だった。

 ある時期、加藤周一を読むのを意識的に控えた。それはものごとの考え方が自分自身でなく加藤周一の真似をしているように感じられたからだ。自分の頭で考え、自分の感性で感じないといけない。

 「加藤周一を21世紀に引き継ぐために」という厚い新刊書が出た。今回、自分では買わず、図書館に閲覧希望を出した。数週間後、通知が届き、最初の貸出者になった。

 この本の中で加藤周一の著作について多分野の研究者たちが分析しているのだが、あと数十頁を残して2週間が経った。家内に貸出延長を頼みに行ってもらったが、次の希望者がすでにいるとのことで一旦返し、その次にしてもらった。

 2週間後、また通知が来て、再度借りに行った。ところが、読み残しの数十頁を読む気が起こらない。まったく読書欲がわかない。

 そしてまた2週間が経った。2度目の貸出では1頁も読まぬまま返却した。

 この拒否反応はどうしたことだろう?

 しばらく加藤周一から離れよう。いつかまた読みたくなる時が来るかもしれない。
 しばらくさようなら、加藤周一。
(5−3−2021)