これは昨年書いた小話である。空想のコントだが、事後談がある。
「写経生」という職業、地位について今年、新たな資料を得て、それを読んだ。
月に何度か区の図書館を訪れ、何冊も借りる。ときどきリサイクル本コーナーに廃棄処分の本が置いてあり、自由に持ち帰ってよい。
好運にも、「書の日本史」(平凡社)9巻をもらって帰った。また売りできないように本のいたるところに「禁転売」の青スタンプが押してある。
第2巻の平安時代の第7章に「写経」について詳述している。要するに、写経生はただしくは「経師」といい、書家というより職人のような存在だったらしい。写経生ごときが最澄や空海とともに遣唐使の一員として唐に渡ることはあり得なかったようだ。
いいではないか。これは私の想像だから。
あまりに本場の水準が高く、とても目標に達せず帰国できなかったという挫折感・・・それを書いてみたかった。
(4−30−2021)
いま発売中の「ボクシングビート」誌、今月号の連載コラム「ボクシング珍談奇談」は自分でいうのも何だが労作である。
Willie Pep vs. Sandy Saddler
というそのものずばりのタイトルの洋書をじっくり読んだ。
ペップとサドラー(ともにボクシング史に残る名チャンピオン)が4度激闘を演じた背景を詳述し、両者の晩年を記載している。
もちろんYouTubeで両者の世界フェザー級タイトル戦を見直し、サドラーとエロルデなど他の対戦者との試合も見た。ペップについてもそうだ。レイ・ファメション戦もYouTubeにあり、これがのちの原田、ファメション戦誤審の遠因となる。
昔、戦った相手の息子の試合のレフェリーをするとしよう。誰だって身びいき、心情が入るだろう。そんなバックグランドのある、いわくつきのペップをファメション、原田戦のレフェリーに選任した認定団体に誤審の責任がある。
普通、このコラムを書く場合の資料集め、予習より今回ずっと時間をかけて用意した。この本は本当に面白かった。
なぜか? 私の中に、「サドラーは凄い選手だ」というimpression(思い入れ、リスペクト、好印象、お気に入り感)が強烈にある。
私がボクシングを見だしたのは、金子繁治(敬称略とさせていただく)が眼疾のため引退したあとで、当時の専門誌においてサドラー神格化は大変なものがあった。まさしくモンスター扱いだった。
最近、「攻防兼備」が理想的評価基準のようにいわれるが、サドラーのように少々打たせても相手をよりねじ伏せる強引さ、殺伐さ、荒さのある選手は(ボクシング狂少年にとって)本当に強く感じられた。しかも、サドラーには驚異的な打たれ強さ、強靭さ、タフネス、耐久力、スタミナがあった。
現代のボクシングライターは幸せだ。活字、映像の資料が豊富で、インターネットによりそれが安易かつ安価に活用できる。
ペップ対サドラー戦の洋書を読んでいるとき、こう考えた。
1週1冊、洋書を読み上げていけば、年間50冊読める。
厚い本、読み終わってからノートやカードに取る場合はもう1週間、その本に留まってもいいが、できれば早く次の洋書に移動する。
そして、いまの本を読んでいるとき、次に読む本を決めて本棚に積んでおく。
たとえば、
Willie Pep vs. Sandy Saddler
Give him to the angels (ハリー・グレブの伝記)
Sporting Blood (ボクシングのダークサイド、暗黒部)
Gypsy King (タイソン・フューリー伝記)
のように。
ここで以前(何十年も前だが)読了したのにあまり細部の記憶がないペップの伝記「Friday‘s Hero」も読みたくなった。
チェイン・リーディングのどこかに入れよう。
Gypsy Kingの前か。
そして、ジプシーについても調べてみよう。
テレビの解説の際、「ジプシー」は禁句、つまり放送禁止用語扱いされていて、逆に興味を覚えだした。
次に読む本(読みたい本、読むべき本、読むであろう本)を側に控えさせておくのは、(自分にとって)よい方法だ、と思っている。
(4−28−2021)