皇居勤めの近衛兵の候補になると、決まる三年ほど前から調査が入ったという。本人のみならず親族全員まで、素行、思想調査が及んだそうだ。
そこで全く問題がなければ、二十歳の徴兵検査合格のあと正式決定となる。
わが町や村から近衛兵が出るのは郷土の誉(ほま)れであり、合格者は夢と誇りを持って上京した。選ばれし若者たちは大都会、東京で成長し、エリート訓練を受ける。
父のクラシック音楽愛好癖はそんな源を持っており、特にモーツアルトが好きだった。
昔は土曜が半ドンで、まる一日休めるのは日曜日だけだった。その休日は、わが家では朝から夕方までモーツアルトのレコードが響いていた。
父は目をつぶりその調べに聴き惚れていたり、本を読みながらBGMとして聞いていることもあった。
子供の私は最初は強制的に一緒に聞かされ、それが実に苦痛だった。そのうち、家でモーツアルトが鳴り響いているのに慣れてきたきたが、試験勉強のときなど耳障りだった。
確かにモーツァルトの曲は美しいのだろう。その流麗な調べは大多数の聴き手の心を和ませるのかもしれない。
しかし、静寂は音楽にまさる。難解な本を読んでいると、いかなる音楽も騒音にしか聞こえないことが多々あった。
三十数年前、映画「アマデウス」がヒットし、モーツァルト・ブームになった。いつも、どこかで鳴っているーードン・ジョバンニが、フィガロの結婚が、魔笛が、アイネクライネナハトムジークが。
あの頃、本当にモーツアルトが嫌いになった。別にクラシック自体が嫌いなのではなく、モーツアルトがかかっていれば文化的で情操ゆたかというお仕着せの風潮を嫌悪したのだ。
今でもモーツアルトが好きではない。異端者と見られるかもしれないが、好みを押し付けられるのは御免だ。
――古稀を越えた今も、ほぼ毎日、区のプールで泳いでいる。泳いだ帰り、体育館の地下から階段を登ってあがる。そのとき、館内にクラシック音楽が響いている。
ある日、聞いたことのあるメロディが鳴っていた。モーツアルトだ。
その調べは耳から身体の中に侵入してきた。最初の拒絶反応が押し流され、疲れた筋肉をもみほぐしだした。
「お前なんか大嫌いだよ」と意思表示する前に、麻薬をかがされたようにノックアウトされていた。
体育館の玄関を出て、まだ聞こえるモーツアルトが徐々に小さく、そして聞こえなくなるまで、耳をふさぐようにして早足で歩を進めた。――まるで逃亡者のように。
Give me silence, not Mozart.
(3−29−2021)
「新型コロナ7つの謎」(宮坂昌之著 講談社ブルーバックス)を読んだ。
コンパクトによくまとめられていて、大いに参考になった。ただし、初出の技術用語を太字体にするとか、もう少し工夫をすれば、さらに読みやすいガイドブックになっただろう。
宮坂氏は巻頭言でこう書いている。
随筆家の寺田寅彦は、「ものをこわがらな過ぎたり、こわがり過ぎたりするのはやさしいが、正当にこわがることはなかなか難しい」と。
実は、私は寺田寅彦の愛読者で、これを発端としてあることを想い出した。
父は私が33歳のとき、59歳で逝った。当時でも若死にといえる。大腸癌で神戸市内の病院に入院後、数ヵ月で亡くなった。私は東京で会社勤めをしていた。
サラリーマンになって最初のボーナスで、寺田寅彦全集(岩波文庫版)を求め、それを父に言った。理科系で本を読む人間は大概、寅彦が好きだ。エンジニアの父は文庫本の寅彦選集はよく読んでいたが、全集を買った私をちょっとうらやんだ。忙しくて全集までは読めないからだ。
入院したとき、「あの寅彦全集まだ持っているか。できればしばらく貸してほしい」と頼まれ、それを送った。緑色のケースに入っていて、小ぶりの本だった。
寅彦全集はそのまま私の手元に戻ってきたのは、父が病院で世を去ったあとだ。以後、約40年経つが、どうもそれが読めず書庫に収めたままだ。亡父のことを想い出し、全集の箱を開けるのをためらいがちだ。
一昨年、吉祥寺の古書店の店先に、大きい頁の版の寅彦全集が売りに出ていた。古本というが、新品である。5,000円の値段がついていて、主人に訊いた。
「これは1冊5,000円ですか?」
「いいえ、全集全部で5,000円です」
「とても廉(やす)いですね」
「もう漱石、鴎外、寅彦の全集なんて売れないんで、需要と供給の関係ですね」
先の所有者の手がついていない本当の新本だ。多分、書店の倒産や店じまいで、こんな新刊書が古書店に流れることになったのだろう。岩波書店の本は返品がきかないというから。
以後、新しい寅彦全集が一棚を占め、寅彦にかかわる伝記や追想集をその棚に一緒に収める。いわば寅彦ライブラリーだ。
以前、気の向いたとき、寅彦の随筆を読んできたが、今回のコロナ禍にあって再読している。読むたびに何か発見があるのは、寅彦が大学の物理学の先生であり、かつ漱石の弟子、子規や虚子、露伴の友人であるため、文理の融合がほどよいためだろう。
すぐれた随筆が歴史をこえて生き残る実例を寅彦に見る思いがする。今回のコロナ禍にあって、私自身失ったものはあるのだが、ただひとつ、寅彦全集を精読しはじめたのは、わが人生にとり、何より意味のあることだと思っている。
わが「寅さん」は不滅である。
(3−14−2021)