コロナ休暇中、バックナンバーの整理をしている。この状況下、外国から選手を呼べないので、開店休業だ。
読んでは、メモをした付箋をはさみ、のちの検索の便を図る。そして、カードに記入して、1冊=1カードを目標としている。
これだけのバックナンバーが私のところに集まったのは、先輩諸氏のご厚意によるもので、平沢雪村先生、下田辰雄先生、梶間正夫先生、中村金雄先生に大いに感謝する。
以前、貴重なコレクションだから、汚すまいという気持ちがあり、その防衛意識ゆえか読み進まず、積読(つんどく)になっていた。
いまは違う。アンダーラインを引き、付箋をはさむ。私が読んだ足跡をあえて残そうとする。誤謬、誤字、誤植を余白に書き、それを明記する。
万が一、将来、この雑誌が誰かの手に移るとき、「ここを読みなさい、ここを!」と注意を喚起するためもある。
この「拳闘ガゼット」は郡司信夫先生の編集になるものだが、初期の号は何と26センチ×38センチもある。どうして、こんなに大きな雑誌を作ったのだろう。
試合会場の売店で売るとき、目立つように大きくしたのだろうが、書店ではスペースを取りすぎて迷惑だったのかもしれない。後に、戦時下、紙の統制を受け小型版のガゼット誌になるのだが・・・。
バックナンバーを読み込んでは、ボクシングビート誌の連載「ボクシング珍談奇談」に何かおもしろい話を書く。また楽しからずや。
(8−30−2020)
7月の書道水墨画個展の際、いきつけの古書店の主人夫妻が花を贈ってくれた。終了後、挨拶に行き、お礼がてら7冊ほど求めた。
返礼だから、前に目星をつけていた本を取り上げ、買い物を終えてすぐに出た。正岡子規の評伝が3冊とその隣にあった本も加えた。
それが、紀田順一郎著「知の職人たち」だった。
個人で辞書、百科事典を編んだ男たち6名の逸話集であり、これが予想以上におもしろかった。
<吉田東伍>
まず「大日本地名辞書」を作った吉田東伍(敬称略)だ。
この名前に記憶があった。
森鴎外の「寒山拾得」の最初の方だ。
「日本で県より小さいものに郡の名を付けているのは不都合だと、吉田東伍さんなんぞは不服を唱えている」と、その名が出てくる。
なぜ憶えていたかというと、好きな作品の最初の一節を書写するのが趣味だからだ。
その吉田東伍がいかに博覧強記の特異な学者だったかを初めて知った。
「彼は書物を読むのが非常に速かった。二行、三行を一度に読んでしまうという特技を持っていた」とあり、雑に読むのではなく、細部にいたるまでよく記憶していたそうだ。
吉田東伍は「大日本地名辞書」編纂の功をもって、明治42年、文学博士の学位を授けられた。このときともに博士になったのは森鴎外を含む6名だが、吉田はその最高点だったという。中学しか出ていない研究者が博士になったということは、非常に注目されたという。
<斎藤秀三郎>
斎藤秀三郎という英語教育の超人がいて、「斎藤和英大辞典」を編んだ。その息子が指揮者、秀雄で「斎藤メソッド」の創始者であり、小澤征爾、山本直純などを教えた。
この息子、秀雄が音楽会のある日、風邪で熱を出し、体温計で測ろうとした。母とらは「何度なら行くんですか」と問い、秀雄は「なるべくなら行く」と答えた。母が「それなら測っても仕方がないではないか」と言うと、「もし途中で倒れたらどうします」と息子が問い返した。
母親は厳しい顔で言ったという。「音楽をやる人間がステージで倒れたら本望でしょう」と。父、秀三郎は、「学校へ出たら、倒れるまで休むな」という躾(しつけ)をしたという。
<新村出>
6人目の「広辞苑」の編者として有名な新村出の項もおもしろかった。
たしか新村出の本があったはずだ。
「随筆 ちぎれ雲」(1942年)だが、つんどく屋だからもう何年も(約5年)未読だ。いつか読むさ、気が向いたら。
著者、紀田順一郎の他の本「古書店を歩く」(福武文庫)の巻末解説に目黒考二が書いている。
「本がもう一冊の本につながり、その本を探して、また別の本につながるという世界のひろがりを知る」という一文がある。
同感である。
(8−23−2020)
外山滋比古が逝った。96歳の長寿で、没年間近まで書き続け、よく本が出た。
「思考の整理学」という本がベストセラーになったとき、読んでみたら、過去に読んだ記憶が蘇ってきた。以前読んだのは何十年も前のことだった。勉強や整理の方法論が主だから、内容は決して古びていなかった。
ためになるが、読み終わると、感心して書棚のどこかに収め、そのまま忘れてしまう。どういうわけか、どの本もあまり再読はしなかった。
故人の本で最後に読んだのは、「乱読のセレンディピティ」だったと思う。あるとき、本棚の上段からある本を取り出そうとして、隣の「乱読のセレンディピティ」が落ちて、頁が開いた。
そこに、芥川龍之介の「秋山図」のことが書かれていた。その項目を読み、随筆のタネを見つけた感じがした。
「秋山図の裏」と題した短いエッセイを書いたが、内容が込み入って、これでは他の人が読んで理解しがたい、と思った。
そこで、棚から落ちて開いた本が「乱読のセレンディピティ」でなく芥川の「秋山図」自体として、外山氏のパラグラフを一切削除してみた。そうすると、幾分すっきりした。
その手書きの拙作「秋山図の裏」をボクシングファンクラブ(以前のリングジャパンクラブ)会員諸氏に流した。
「秋山図」という作品の難しさの原因のひとつは、同じ登場人物がいくつもの名前(雅号、あざななど)を持つためだ。私はノートに識別表を作ったから理解できたが、普通の読者は芥川のこの作品に戸惑うのではないか。
ちょっと思いつき、万年筆で随筆を書いておき、気が向いたときに墨をすり小筆でわが拙作を書道作品として残す。和紙の良質の原稿用紙を銀座の鳩居堂で求め、使ってみるととてもよかったので、まとめて収蔵している。
乱読の効用を説いた「乱読のセレンディピティ」を再読してみようと思うが、それが見当たらない。そのうち出てくるだろう。
「セレンディピティ」という言葉はもっと人口に膾炙するかと期待したが、それほどでもなかった。「掘り出しものを偶然見つける才能」のことらしい。
私は乱読屋なので、ときにセレンディピティの恩恵を感じることがある。
啓蒙家、外山滋比古氏の冥福を祈る。
(8−8−2020)
プール再開後、ほぼ毎朝泳いでいる。
「いつからプール閉鎖でしたか? 年間300日水泳しているもので・・・」と体育館の窓口に訊くと、「確か、3月の2週目、9日からだと思います」と答える。
月に2回はWOWOWエキサイトマッチの収録で、水泳ができない。つまり、月に28日は泳げる。
今年、3月9日から6月14日までの約3ヵ月(約90日)休んだ場合、一体今年1年で何日、泳げるか?
泳ぎながら、略算した。
365日 − 90日(プール閉鎖期間) = 275日
275日×(30日―2日)/30日 = 約257日
すなわち、コロナ禍のため、通例の年間300日水泳は難しいが、約250日は泳げるという計算になる。
毎日、同じプールで同じ時刻に泳いでいると飽きがくるので、耳栓で変化をつけることにした。
現在5種類の耳栓をプールに行くバッグに入れており、水に入る直前、その日の気分により選択する。
最近、プールの受付前の水泳用具セールで求めたブルーの耳栓はわが耳とのマッチングがよく、大いに気に入った。
もう2つ余分に買って、ひとつは出張用(新幹線や飛行機内で本を読むとき用)。もうひとつは睡眠用だ(夜は静かで不要だが、昼寝をする場合、防音、消音に効果がある)。
耳栓で
気分転換
二百五十日
(8−2−2020)